援助を必要とする個性


 「障害」を「個性」と考えよう、という考え方がある。「障害」は人間という基本的な存在にたまたま付与された「個性」である、つまり、人は元来同じではなく10人10色というようにみんな違うのだ、障害も個性の一つで「障害という個性にすぎない」という考え方である。
 それは、障害を持つ人も普通の生活をする権利があるというノーマライゼーションの考え方を越えて、「障害」という言葉そのものを問い直すきっかけになる。個性として考えることで、気むずかし屋の君も自分の身の回りのことがうまくできない僕も、左利きの貴方も車いすの私も、みんな同じ人間だよ、だから一人の市民として尊重され、生きる権利を持つ独立した存在なんだ、と理解できるようになる。
 誰でも何かしらの個性を持っている。しかし、その個性はハンディキャップ(社会的な不利)になって現れたりもする。そのハンディキャップの部分を皆で補い援助する。社会は、様々な個性を持つ人がお互いに助け合いながら成り立っているはずなのだ。
 しかし、個性は様々でありすぎる。個性でくくると一人では生きていけない場合でも個性だからといって、気にかけなくても良いことになりかねない。個性とみるのは理にかなった考え方であるが、単に個性といってしまうには適切でない場合もあることを理解しておきたい。そんな個性を、「個性だから誰でもあることだ」といって安易に切り捨てられないように、「援助を必要とする個性」と考えたい。
 必要とする援助は、LDであっても、ADHDであっても、アスペルガー症候群であっても、はたまた高機能自閉症であっても(以下、LD等)、それぞれの診断名毎に定まるほど簡単ではない。また、同じ診断名であっても、必要とする援助は、内容も量も期間もまちまちであり、個々に異なるのが普通だ。僕たちが望むのは診断名毎の援助ではなく、自立に向けて何が必要かを見極め、良いところを伸ばし、それを生かしながら生きていける過不足のない援助である。
 社会に出れば、人との付き合い、仕事の処理、金銭管理、健康管理、危機管理など自立するためのハードルは山ほどある。ハードルを越えようとする「援助を必要とする個性」側の努力だけでなく、その個性と関わる人、地域、会社、行政、支援組織側の理解と協力も不可欠である。
 僕たちの思いは、決してLD等だけのために何かを欲するというものではない。「援助を必要とする個性」達に適切な援助が行われ、LD等もそのなかの一人として必要な援助が得られればよいというものである。
 親の会の運動の中から勝ち取ったLDへの国の理解をもって、新たな障害分類の線を引かせ、僕たちが子と共に味わってきた苦い思いを、再びその周辺の子供達にさせることを望まないことだけは、深く心に刻んでおきたい。

H14.2.18
星の子 T.K.